戦場のメロディ

       エルピディオ・キリノ大統領

地球にペタ

ここ数年、フィリピンを訪れるようになって
私の知らなかった日本が見えてきました。
私が生まれるほんの30年ほど前の出来事が。

第6代大統領。エルピディオ・キリノ
1890年11月16日南イロコス州ビガン生まれ
第二次世界大戦後の1948年、ロハス大統領の死去に伴いキリノ大統領が誕生しました。

地球にペタ



第二次大戦末期のフィリピン、ルソン島バタンガスでは
1万3千人のフィリピン人が日本軍によって虐殺されました
また、マニラ市街戦では、マニラは灰燼に帰し
市民約10万人が犠牲となりました。
その中にはキリノ大統領の妻と子供たちも含まれていました。

昭和26年、フィリピンのモンテンルパ収容所には多くの日本人捕虜がいました 。
戦犯は次々と処刑されました 。
その中の1人に憲兵としてフィリピンに赴任し戦犯として
収容所に抑留された代田銀太郎がいました。
代田は日本には 帰れない想いを詩に書きました。
その詩に元陸軍大尉の 伊藤正康が オルガンで曲をつけ
「ああ モンテンルパの夜は更けて」が完成しました。
そして昭和27年、 当時の人気歌手 渡辺はま子宛に
モンテンルパ収容所から手紙と楽譜を送り
「この歌をあなたに歌ってもらえるなら思い残すことはない」
と書きました。その声に応えレコーディングをしました 。
レコードが 発売されると、歌は大ヒットし
同時に全国で助命嘆願の署名が集まりました。
それは、キリノ大統領の 耳にも入っていたのですが
日本人に家族を殺された憎しみとの間で揺れ動いていました 。
そこへ、キリノ大統領宛にオルゴールが届きました。
送り主は渡辺はま子。キリノ大統領は その オルゴールの
悲しげなメロディが、 望郷への思いを歌にしたものだと知り
収容所にいる日本人戦犯を、全員釈放することを 決めたのです。
キリノ大統領は憎しみを超えて収容所にいる日本人戦犯を
全員釈放することを 決めたのです。

地球にペタ

その後、キリノ大統領と唯一生き残った娘ヴィクトリアと共に
天皇陛下からの招待を受け日本を訪れました。
その時、陛下より感謝の言葉と共に銀製の食器が贈られました。
食器は、現在ビガンにあるキリノ博物館に
人目にさらされることなく眠っています。
親族である管理人に訪ねればきっと見せてくれるでしょう。